2009年 04月 03日
【9092】 ”言文一致”作家と新聞記者:二葉亭四迷の悲劇 |
★ 明治の中頃、”言文一致”の新文体の小説『浮雲』を発表して、”日本現代文の祖”と仰がれている二葉亭四迷(本名・長谷川辰之助)が、その高い評価の最中に、極端な文学嫌いになり、職を転々とした末に41歳で朝日新聞記者になり、やる気満々だったが・・・これが社長を怒らせた落第記者だった。
★ 意外な秘話が、日本新聞協会が発行している新聞専門月刊誌「新聞研究」の検証シリーズ「文学者たちの記者時代」に紹介されています。「文学なんかに凝るようなら、”くたばってしまえ”」と父親に叱られその語呂合わせでペンネームにした、という愉快な話題の持ち主の顛末記。それを想うと、何とも皮肉なオハナシ、一読、人生の不条理を痛感しました。
★ 筆者である朝日新聞・社史編集センターの高久陽男さんの検証によりますと、『浮雲』で名声を得た後、「小説の上じゃ偽っぱちより外に書けん」と文壇に強い嫌悪感を持つようになり陸軍大学や母校・東京外語のロシア語教師や北京へ行って警察学校の事務長など職を転々としました。
★ それを心配した内藤湖南の推薦で大阪朝日新聞に入社。破格の月給100円で迎えられ、やる気満々。大喜びで敬愛する坪内逍遙に「仕事は東亜経営問題の研究と申事ゆえまずは会心の仕事と申すべく・・・・」と手紙を送ったほどだったそうです。
★ 入社早々、ロシア事情に関する記事を書きまくって、たちまち30本を超す原稿を送稿しましたが・・・・掲載されたのは、4本だけ。それ以外は全部ボツ。主筆の池辺三山が「一冊の取り調べ書。新聞社ではなく参謀本部か外務省へ持って行け、と言いたくなる」と述懐したそうです。要するに”精細詳密”なあまり一般向けではない論文。
★ 面白くない四迷は、雑誌にロシアの翻訳小説を書きまくります。この”内職”に村山竜平社長が激怒し、直ちに「クビにしろ」といきまいたが、池辺主筆が「文筆にかけては第一流之人なるを此儘やみやみ取失うも可惜奉存候」と取りもって、やっとクビが繋がったのだそうです。
★ 失意の四迷に大きな転機が巡ってきます。明治41年(1908)のこと。ロシアの文学者で著名な新聞人だったミロビッチ・ダンチェンコが来日し、その会見記が縁でロシア特派員に決定。首都サンクトペテルブルグへ赴任しましたが不幸にも肺結核になり、翌年3月、帰国の途中、インド洋ベンガル湾を航海中に船中で死亡しました。享年46歳。
★ 健康状態も悪かったセイもあるでしょうが、特派員としての四迷の仕事は散々でした。打電原稿は遅れ勝ち、届いても紙面には載せられない。池辺主筆も「露都特電は成功しなかった」と悔やんでいます。
★ しかし、四迷の”露都特電”を検討した高久さんは、「四迷の取材態度は並大抵ではない。バルカン問題を執拗に追って、09年1月に『外交の虚々実々』を執筆した。その5年後、バルカン半島を発火点に第一次世界大戦が勃発した」と高く評価しています。
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◎ 一番、嫌った小説で後世に名を残す。そして、一番、意気軒昂に生き甲斐を感じ取っていた新聞記者は、関係者すべてが認める”落ちこぼれ” そして非業の死。何とも人間の運命というものは不条理なものですね。
◎ 日本では、新聞と文学の関係はとりわけ深く、明治以来、数え切れない作家や歌人が新聞に関わってきました。文学者として後世に名を残している人々も、現役記者時代の仕事はどうであったのか? そこにスポットを当てた『新聞研究』の新シリーズは、今年1月号から始まっています。
◎ 1月号の二葉亭四迷に続き、2月号は正宗白鳥 3月号は長谷川伸 4月号は戸川幸夫 と続いています。これから年末まで合計12人を俎上に挙げて”業績吟味”をするのだそうです。ご関心のある方は是非、図書館でご覧ください。
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★ ところで、私自身は、この記事を読んだのがキッカケで、小説家、二葉亭四迷の歴史的偉業とされる”言文一致”の原典『浮雲』を吟味して読み直して見ました。
★ 四迷自身が雑誌に発表した「余が言文一致の由來」と題した文章があります。これを読むと、後に”言文一致”と歴史的評価をされた二葉亭四迷の文体は、
★ 更に詳しく読めば、”言文一致”を実際に完成させた先駆者は落語家、初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう(1839年~1900年)であり、それを文学史上、実践したのは二葉亭四迷の【である調】と小説家で詩人でもあった山田 美妙(やまだ びみょう、1868年~1910年)の【ですます調】であった、経緯が証言されています。
★ 山田美妙も、言文一致の作品を多く残しながら小説家としての評価は低く、後に国語辞典「日本大辞典」(1892年)と「大辞典」(1912年)の編纂者として著名になりました。
★ いろいろと調べているうちに非常に興味深いことも分かってきました。現在、広く用いられている中国現代文は魯迅の「文学革命」(1917年)で完成したのだそうですが、明治期に日本に留学していた魯迅が、日本の言文一致運動に触発されて起こした中国版言文一致運動であった、のだそうです。発祥地は日本。
★ 二葉亭四迷と魯迅。日本と中国、それぞれの国の現代文の基礎は、この二人の天才作家の偉業であった。しかもその両国現代文の”言文一致”発想の先駆者は、幕末から明治にかけて人気者であった落語家、初代三遊亭 圓朝師であった、ことを改めて再確認しました。
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** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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★ 意外な秘話が、日本新聞協会が発行している新聞専門月刊誌「新聞研究」の検証シリーズ「文学者たちの記者時代」に紹介されています。「文学なんかに凝るようなら、”くたばってしまえ”」と父親に叱られその語呂合わせでペンネームにした、という愉快な話題の持ち主の顛末記。それを想うと、何とも皮肉なオハナシ、一読、人生の不条理を痛感しました。
★ 筆者である朝日新聞・社史編集センターの高久陽男さんの検証によりますと、『浮雲』で名声を得た後、「小説の上じゃ偽っぱちより外に書けん」と文壇に強い嫌悪感を持つようになり陸軍大学や母校・東京外語のロシア語教師や北京へ行って警察学校の事務長など職を転々としました。
★ それを心配した内藤湖南の推薦で大阪朝日新聞に入社。破格の月給100円で迎えられ、やる気満々。大喜びで敬愛する坪内逍遙に「仕事は東亜経営問題の研究と申事ゆえまずは会心の仕事と申すべく・・・・」と手紙を送ったほどだったそうです。
★ 入社早々、ロシア事情に関する記事を書きまくって、たちまち30本を超す原稿を送稿しましたが・・・・掲載されたのは、4本だけ。それ以外は全部ボツ。主筆の池辺三山が「一冊の取り調べ書。新聞社ではなく参謀本部か外務省へ持って行け、と言いたくなる」と述懐したそうです。要するに”精細詳密”なあまり一般向けではない論文。
★ 面白くない四迷は、雑誌にロシアの翻訳小説を書きまくります。この”内職”に村山竜平社長が激怒し、直ちに「クビにしろ」といきまいたが、池辺主筆が「文筆にかけては第一流之人なるを此儘やみやみ取失うも可惜奉存候」と取りもって、やっとクビが繋がったのだそうです。
★ 失意の四迷に大きな転機が巡ってきます。明治41年(1908)のこと。ロシアの文学者で著名な新聞人だったミロビッチ・ダンチェンコが来日し、その会見記が縁でロシア特派員に決定。首都サンクトペテルブルグへ赴任しましたが不幸にも肺結核になり、翌年3月、帰国の途中、インド洋ベンガル湾を航海中に船中で死亡しました。享年46歳。
★ 健康状態も悪かったセイもあるでしょうが、特派員としての四迷の仕事は散々でした。打電原稿は遅れ勝ち、届いても紙面には載せられない。池辺主筆も「露都特電は成功しなかった」と悔やんでいます。
★ しかし、四迷の”露都特電”を検討した高久さんは、「四迷の取材態度は並大抵ではない。バルカン問題を執拗に追って、09年1月に『外交の虚々実々』を執筆した。その5年後、バルカン半島を発火点に第一次世界大戦が勃発した」と高く評価しています。
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◎ 一番、嫌った小説で後世に名を残す。そして、一番、意気軒昂に生き甲斐を感じ取っていた新聞記者は、関係者すべてが認める”落ちこぼれ” そして非業の死。何とも人間の運命というものは不条理なものですね。
◎ 日本では、新聞と文学の関係はとりわけ深く、明治以来、数え切れない作家や歌人が新聞に関わってきました。文学者として後世に名を残している人々も、現役記者時代の仕事はどうであったのか? そこにスポットを当てた『新聞研究』の新シリーズは、今年1月号から始まっています。
◎ 1月号の二葉亭四迷に続き、2月号は正宗白鳥 3月号は長谷川伸 4月号は戸川幸夫 と続いています。これから年末まで合計12人を俎上に挙げて”業績吟味”をするのだそうです。ご関心のある方は是非、図書館でご覧ください。
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★ ところで、私自身は、この記事を読んだのがキッカケで、小説家、二葉亭四迷の歴史的偉業とされる”言文一致”の原典『浮雲』を吟味して読み直して見ました。
主人公・内海文三は叔父の家の二階に寄寓している青白いインテリ青年。どことなく憔悴感ただよう青年で、叔母のお政の気に入らない。さんざん厭味を言われつつも何とか学校を卒業して官庁勤め。★ ビックリしたのは、これが明治20年代の小説か?と思うほど現代的です。今の世の中、私たちの周りに、同じ青年がいっぱいいますね。いわゆる”アタマデッカチ”「理想負け人間」。四迷自身がそうだったのかもしれません。
折角、得た役所の仕事だが、あまりも空しい。「曾て身の油に根気の心を浸し、眠い眼を睡ずして得た学力を、こんな果敢(はか)ない馬鹿気た事に使ふのか」とシニカル。同僚の本田昇は小利口で、つねに立身出世をはかった積極行動をとる。
叔父の娘、お勢に英語を教えるうちにぞっこん惚れ込み、役所にいてもお勢のことが頭を去らず、帰ってきてお勢がいないと失望する生活に・・・といってお勢に心を打ち明けることもできない。
そんな頼りなさが元で役所も簡単に免官される。それに抗議もせず、これを機会にお勢と世帯を持ちたいと思いはするのだが緊張するだけ。かえってお政に悪態をつかれ、決断をして家を出ようとするが、決心付かず、心の空回りをくりかえす。結局は部屋に閉じこもったまま引きこもり。本田はやすやすとお勢を籠絡する。そんなお勢に「親より大事なものは”真理”」などと言う文三。
★ 四迷自身が雑誌に発表した「余が言文一致の由來」と題した文章があります。これを読むと、後に”言文一致”と歴史的評価をされた二葉亭四迷の文体は、
「何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。坪内(逍遙)先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて書いて見たら何うかといふ。そのように書いて先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑(はた)と膝を打つて、これでいゝ、その儘でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ」と、いう風にして出来上がったのだそうです。
★ 更に詳しく読めば、”言文一致”を実際に完成させた先駆者は落語家、初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう(1839年~1900年)であり、それを文学史上、実践したのは二葉亭四迷の【である調】と小説家で詩人でもあった山田 美妙(やまだ びみょう、1868年~1910年)の【ですます調】であった、経緯が証言されています。
★ 山田美妙も、言文一致の作品を多く残しながら小説家としての評価は低く、後に国語辞典「日本大辞典」(1892年)と「大辞典」(1912年)の編纂者として著名になりました。
★ いろいろと調べているうちに非常に興味深いことも分かってきました。現在、広く用いられている中国現代文は魯迅の「文学革命」(1917年)で完成したのだそうですが、明治期に日本に留学していた魯迅が、日本の言文一致運動に触発されて起こした中国版言文一致運動であった、のだそうです。発祥地は日本。
★ 二葉亭四迷と魯迅。日本と中国、それぞれの国の現代文の基礎は、この二人の天才作家の偉業であった。しかもその両国現代文の”言文一致”発想の先駆者は、幕末から明治にかけて人気者であった落語家、初代三遊亭 圓朝師であった、ことを改めて再確認しました。
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** ご挨拶 ** ブログ【傘寿を生きるロマン日記】公開に当たって
私のネット生活に寄せる想いです。ご理解賜りたくご一読をお願い申し上げます。
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by zenmz
| 2009-04-03 11:36
| 歴史との対話